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人権作文

ページID:230559662

更新日:2024年2月2日

「人権作文コンテスト」は中学生を対象に東京法務局・東京都人権擁護委員連合会の主催で実施しています。人権について文章を書くことによって、人権尊重の重要性、必要性について理解を深めるとともに、豊かな人権感覚を身につけることを目的としています。今年度「人権作文コンテスト」は、4校700名の生徒のみなさんに参加していただきました。人権擁護委員による審査会で参加校各校の代表作品とその中から区の代表作品として人権作文3編を選定しました。台東区は、選定された各校の代表作品の生徒に対し、台東区長賞、また区の代表となった作品の生徒には台東区長特別賞として表彰を行いました。受賞した4編の作品を掲載します。

※個人情報保護のため氏名は掲載しておりません。

目次

台東区長特別賞

「やさしい祖母」御徒町台東中学校 3年

全国中学生人権作文コンテスト 東京都大会 奨励賞

 「高校生になったら使わせてやるからな。今は危ないから。ほら、前に出ちゃダメだぞぉ。」そう言って雪かき機を操縦する祖父は、祖母と一緒に山形県に住んでいた。山形県は毎年のように大雪が降る。それもあって毎年冬になると僕は、新幹線で遊びにいっていた。そして僕が駅について、迎えに来てくれるのはいつも祖父だった。そんな祖父は、2年前の11月に癌で亡くなった。その時はコロナで行動をしづらかったことや、症状が急に悪化してしまったこともあり、亡くなる直前に会うことができなかった。部活から帰り、その事実を聞かされた時は、何故か涙は出なかった。翌日すぐに山形の実家に帰り、そこに安置される祖父を見た時、涙が止まらなかった。
 そしてその年の冬も山形は雪でつつまれた。僕と父、そして兄は雪かきの手伝いをしに、山形に行った。駅には祖母が待っていた。車を運転しながら祖母が言った。「あの人がいなくなってから、節約、節約よ。一人分の年金しかもらえないから、大変だよ。今まで全部あの人にやってもらってたから。雪かきのやり方も分からなくて…。」山形の家に着くと、祖父の愛犬2ひきが待っていた。祖父が亡くなった直後は元気がなかった彼らは相変わらずの可愛さで僕を出迎えてくれた。
 雪かきは想像以上に重労働だった。父が雪かき機を操縦し、僕と兄が周りの雪をほぐして、雪かき機の前に置く。そうすることで雪かき機が雪を取りこみ、遠くへ飛ばしてくれる。防寒着の中の服は汗でぐっしょりとぬれ、腰も痛くなった。一晩たつと、屋根に積もった雪がザザーと大きな音をたてて落ち、家の周わりは雪でおおいつくされる。昨日と同じようにまた雪かきである。「わぁーきれいになったねぇ。本当にありがとうね。」そう言って祖母は涙ぐみながら笑っていた。年こしは、山形でした。お正月には、お年玉をもらうという文化がある。祖父がいたころは、祖父と祖母それぞれから5千円ずつ、合計1万円もらっていた。そのため、祖父がいない今回のお年玉は半分になるのではないかと思っていた。お年玉袋をもらい、1人になった時にそっと開けてみるとお札が1枚出てきた。1万円札だった。僕は「なんで。節約しないとダメなんじゃないの。犬もいるし1人なんだから、貯金しないといけないんじゃないの。」と思うのと同時に、祖母のやさしさに胸がいっぱいになった。
 最近、ネットをはじめ色々な所で高齢者のことを「老害」と表現しているのを目にする。働いている人が納める税金を使って生活することに対しての、怒りからそのように呼ぶらしい。あんなにやさしい祖母のこともそのように言われてると感じ、本当に苦しい気持ちになった。そして、そのようなことを言う人に限って「自分達に文句を言ってくる老人に対してだ」とか「うざいから」などと理由をつけて言っているように感じる。高齢者だって昔は私達と同じように若者で、仕事をしていた。だから、今の日本の社会をつくってきたのは、あの人たちなのに、そのようなことを言っている。僕たちが今こうして生きているのは、学校に通えるのは、毎日ゲームで遊べるのは、周りの友達と話せるのは、今、高齢者である人たちのおかげなのだ。
 僕たちもいずれ、高齢者になる。思うように体が動かなくなり、年金によって生活するようになるだろう。そうなった時、若い人たちから助けられたら、心強いに違いない。僕たちは高齢者に対して、もっと心を開くようにした方がいいと思う。確かに、年がはなれていて関わりずらいかもしれない。だからといって、侮辱するような呼び方をするのは間違っている。感謝を忘れないことが大切だと思う。
 祖母は本当に色々なことを知っている。家庭科の冬休みの宿題も、祖母に教えてもらいながら行った。冬休みが終わりに近付いたころ、僕は東京へ帰ることになった。祖母は雪かき機を操縦できないので、あの重労働を1人ですると思うととても心配だった。幸い、父が定期的に雪かきに行くらしいが、正直心配だ。
 僕は来年高校生になる。高校生になると祖母の手助けも今より多くのことをできるようになると思う。雪かき機の操縦をはじめ、車洗いや、畑を耕したりと力を使うことが多くなると思う。そのようなことにも、しっかりと力になってあげようと思う。また、普段の生活でも、困っている高齢者がいたら、助けてあげようと思う。
 もうすぐ祖父が旅立って2年になる。「大変だよ。今まで全部あの人にやってもらってたから。」あの少し悲しげな顔は今でも覚えている。僕は、これから感謝を忘れずに行動したい。少しでも祖母の笑顔が増えるように。

「個性を認め合う世界へ」上野中学校 1年

全国中学生人権作文コンテスト 東京都大会 奨励賞

 ある日突然、目の前が真っ白になった。眩しくて目を開けていられない。私は突然両目が見えなくなった。歩くのにも父と母の腕をつかまなければ歩くことも出来なかった。その時、足元で感じた凹凸。点字ブロックだった。不安が和らいだ。ここを歩けば良いと教えてくれるその凹凸が私を安心させてくれた。
 二年半前、私の両目は突然見えなくなり緊急で入院することになりました。最善を尽くしてくださった病院の先生のお陰で今は元通りの生活を送ることができているので、見た目にはわかりませんが、私の左目はほぼ見えていません。私は両目が見えなくなった時に「見えない世界」がこんなにも怖い世界であることにはじめて気がつきました。毎日歩いた通学路にある点字ブロックも、音の出る信号機も、私には無いものと同じくらいに通り過ぎていました。しかし、点字ブロックや音の出る信号機は目の見えない人にとっては生活を安全で快適にしてくれる公共設備です。そして、命を救うほど大切なものになります。だから、点字ブロックの上に立ったり、自転車を止めたりすることは絶対にしてはなりません。私は、これらのものが生活の中の至る所に設置され、公共設備が整った日本という国に生まれたことを当時とても感謝しました。
 私たちは、普段生活していると当たり前に自由に歩いたり走ったりしています。しかし、目が見えない人や障害がある人にとっては日常が危険にさらされています。例えば、小さな穴や段差、通りすがりの自転車さえも避けるのが難しいのです。最近では電気自動車が増えました。電気自動車は排気音が無いため静かなので、近くに迫っていることに気がつきにくいです。私たち健常者でさえ気づかないことがあるくらいなので、目が見えない人たちにとって電気自動車はより怖い存在になっているのではないかと思います。
 目が不自由な方はこのような日常の中で生活をしていますが、私は自分の目が見えなくなるまで「見えない世界」がこんなにも怖い世界だと気づくこともなければ、目の不自由な人について考えることや、どんな配慮をしてあげるのが良いのかなども考えることがありませんでした。自分の目が見えなくなったことで、見えない人の気持ちや生きづらさ、あると生活を快適にしてくれる道具や設備などについても考えられるようになりました。
 世の中には、障害を負ったことで苦しんでいる人たちがたくさんいますが、身体の障害以外にも「不自由」や「生きづらさ」を感じて苦しんでいる人たちも多くいます。生きづらさを感じているのは、身体に障害を持った人だけではありません。家庭内で圧力をかけられて精神的に苦痛を与えられている人や、肌の色が違うからという理由だけで無下な態度を取られてしまう人、状況判断ができないからと乱暴な態度で介護を受ける老人など目を向けて見ると、たくさんの苦しんでいる人たちがいます。まずは知ることが大事です。知るために努力することも必要だと思います。なぜなら「不自由」や「生きづらさ」を感じている当事者はそのメッセージを発信することが出来ないからです。
 私は両目が見えなくなった時、両親や祖父母、伯母が支えてくれたので気持ちが沈まずに、治療に励むことが出来ました。支えてくれる人の存在はとても大きいです。体に傷が付いたら傷が癒えるまで時間がかかります。ですが適切な処置をすることで、傷の治りが早くなることがあります。心が傷ついた時も同じように傷が癒えるまでには時間がかかります。しかし、悩みを聞いてくれたり大丈夫だよと言って側で励ましてくれたりする人がいれば心の傷も早く癒えます。だから、心も身体も元気な私たちが、周りへ目を配り困っている人はいないかと意識をしていくことが大切だと思います。そして声をかけてあげることで、救えるきっかけとなるかもしれません。
 最後に、私はこれまでの経験を通して、不自由さや生きづらさを発信できない理由の一つは、障害がある人達を「特別」とみたり、思ったりしてしまうことにあると感じました。「特別」とは健常者とは違うという偏見も含まれます。障害を持つことは確かに健常者とは違います。しかし、それを偏見ととらえるのではなく、その人の「個性」ととらえることができないでしょうか。障害といわれる体の不自由さは、病気やケガだけが原因ではなく、歳をとることで自分の身にも起こりえる可能性があります。自分の身に置き換えることで、障害や不自由さを十分に理解することは難しくないと思います。そして、特別という偏見ではなく、不自由さも個性として受け取り、「してあげる」、「してもらう」という一方通行ではなく、「助け合いながら暮らす」という意識に変えていくことが、健常者として生活する者にとっても、障害のある人にとっても、最初にできる意識改革だと思います。

「差別される『障がい者』」柏葉中学校 3年

全国中学生人権作文コンテスト 東京都大会 作文委員会賞

 私は、ようちえんの年中さんの頃おたふくかぜにかかってしまい、両耳が聞こえなくなりみんなと同じ「健聴」の人だったのに「難聴」になってしまいました。その頃はまだ小さかった頃だったので何もわかりませんでしたが「みんなとは違う人間になってしまったんだ」と感じました。
 手術をし、「人工内耳」という機械をつければ聞こえるようになるということがわかり手術をしました。入院している時の記憶はあまりありませんが、早くようちえんに行きたいとずっと思っていたのは今でも覚えています。
 手術が終わり、約半年振りにようちえんに行くと先生がみんなに、私は耳に機械をつけているけど声は聞こえるということを教えてくれました。なので私は安心しましたが、いつも話しかけてくれていた子からも話しかけてもらえなくなってしまい、自分から話しかけても無視されてしまって安心からすぐ悲しみに変わってしまいました。その頃はまだみんながようちえんの頃だったので理解できなくてもしかたがないと思っていました。でも4人くらい話しかけてくれた子がいたのでうれしかったです。
 ようちえんを卒園し、小学校に入り、理解してくれる子が増えると思っていましたがそうではありませんでした。
 3年生になると、もっとエスカレートし、誰からも話してもらえなく、差別、仲間はずれ、悪口までされるようになってしまいました。その時は、「おたふくかぜにならなければよかったのに、みんなと同じ健聴だったらよかったのに、障がい者にならなければこんなめにあわなかったのに」など自分で自分の事をせめることばかり考えてしまいました。そのせいで「本当の自分」を失いそうになってしまったこともありました。そのことをお母さんに話したら悲しむだろうと思い、誰にも相談せずにいました。
 4年生になり、差別はおさまらないままでしたが、転入生が来て、私に初めて話しかけてくれる子ができました。その時はうれしくて泣きそうでした。「次は私から話しかけよう」と初めてプラスなことを考えることができました。仲間はずれにされた時はいつもその子が助けてくれました。おかげで差別はなくなり、4、5、6年生は楽しく学校生活をおくることができました。
 中学校に入学した時はとても不安でした。私は6年生までは墨田区に住んでいましたが家の都合で卒業したあと、台東区にひっこし、みんなは同じ小学校の人がいたと思いますが私は知っている人がひとりもいなかったり、難聴のことでまたいじめられてしまうかもしれないと思い、入学式の時はこわくて震えていました。でも、この学校、柏葉中学校には「難聴教室」という場所があり、難聴について詳しく知っている先生がいて、優しく話しかけてくれました。そして、私と同じ学年の人で私と同じ難聴の子が1人いたので少し心強くなれました。中学校では「障がい者、難聴について理解する」という授業を行ってくれて、みんな真剣に考えてくれていました。そして、難聴についてわかろうとしてくれている子もいて、「困ったことがあったらみんなが助けてくれる、一人じゃないんだ。」と思い、みんなが真剣に考えてくれていることに感動しました。そのおかげで中学校ではいじめがなく、楽しく平和に学校生活をおくることができています。難聴についての授業を行ってくれた先生方、そして真剣に考えてくれた生徒の方には感謝の気持ちでいっぱいです。
 この世の中には、障がい者の人以外にも、トランスジェンダーの人や、ハーフで生まれた人などにも差別している人がたくさんいると思います。でもみんな同じ人間で「心」をもっているのでいじめや差別がなくなってほしいです。人は見た目だけで判断するのではなく、中身もみてほしいと私は思います。
 私はずっと助けられてきたので次は助ける番になりたいです。知らない人に声をかけるのは不安ですが、困っている人がいたら、誰でも、障がい者の人でも優しく声をかけて、助けられるようになり、そのような人もたくさん増えるといいなと思います。
 みんな地球に住んでいる同じ「人間」なので差別やいじめがなくなるようにしたいです。

台東区長賞

「男らしい、女らしいから自分らしいへ」桜橋中学校 2年

 昆虫図鑑、仕事、ズボン、青色。おままごと、メイク、スカート、ピンク色。想像したのは、どちらの性ですか?
 最近このような問いかけを目にした。私は見事に前半では男性を、後半では女性を想像してしまった。そのとき、いかに自分が男女に対して無意識の偏見をもっていて、「男性」「女性」というジャンルに分けることを当然だと思い込んでいたかを知った。そして、自分の考えの狭さに驚いた。
 そこで、男女差別とはそもそも何を指すのだろうか?男女を差別するといったら、スポーツの大会などで男性と女性の枠を分けることも男女差別といえるのでは?と思った。
 しかし、それは違った。私は、枠を分けることには絶対的な理由があることに気が付いた。それは、男女の間にある体の違いだ。それぞれの長所に違いがあるから、公平といえる試合を行うために分けられているのだと理解した。それと同時に、これは「男女差別」ではなく、公平を実現するための「男女区別」なのだと思った。
 その中で、発生する問題もある。それは、性同一性障害の人が性転換手術をし、一致した性として試合に出場することだ。主に、体は男性だが、心は女性だという人が性転換して試合に出たときに有利だ、と問題になりやすい。実際そのようなことがあり、一部の他の女性選手からは、男性時代に形成した骨格や筋肉の優位性が残っていて、公平でないのでは?と不満の声が上がった。
 スポーツの大会に性転換した人が一致した性の枠で出場することは公平なのか。これには賛否両論が飛びかう。そして、一概にどちらが正しいとは言いきれない非常に難しい問題だ。だからこそ、目を背けずに向き合う必要があると思う。
 スポーツで男女の枠が区別されることには理由と意義がある。しかし、人の生き方を否定し、男らしさ、女らしさという言葉で縛りつけるということは、間違っているのではないだろうか。
 私は幼いころ、人から、「男子みたいな子だね。」「もっと女の子らしくしなさい。」などと言われることが多かった。当時の私は短い髪の毛が好きで、将来は医者になって働きたいと思っていた。ピンク色は苦手で、青色が好きだった。確かに他の女の子が好きなアニメやファッションに関心はなかったが、自分の好みを「男の子っぽい」と思ったことはなかった。
 しかし成長するにつれ、自分の性格や好みが他の女の子と違うことに気がつくと、周りから白い目で見られることが怖くなり、「女の子っぽさ」を意識するようになった。筆箱をピンク色にしてみたり、髪の毛を伸ばしてみたり、控えめな笑い方にしてみたり。とにかく自分の知っている「女の子っぽい」ことを実行した。初めは違和感があり、女の子っぽくできてるかな、と不安だった。しかしある日、クラスの女子が、「女子力あってかわいいね」と言ってくれたことがとても嬉しく、それ以来毎日を全力で楽しむようになった。
 しかしそれは、女らしくも男らしくもない、他の誰でもない自分らしい毎日だった。私は長い髪の毛も好きになったし、ファッションも大好きになった。しかし将来の夢や整理整頓ができないがさつな性格は変わらなかった。それに、やっぱりピンク色より青色が好きで、おもしろいことがあったら笑いたいだけ笑った。それはまさに、私の「好き」が詰まった日々で、とても自分らしかった。
 つまり私が言いたいのは、「男だから」「女だから」という理由で自分の好みを全て変える必要はないということだ。私は、どちらも、どれでも好きでいいと思う。その中に、自分らしさが生まれるのではないだろうか。
 最後に、私が伝えたいことは、男女区別と男女差別は全く別のものだということだ。男女差別とは、他人に対して性別を理由に、排除や制限をすることを指すらしい。これは、絶対にあってはいけないし、なくすべきだ。
 最近の社会では、男女差別や、LGBTQへの理解が広まっていて、働く女性や家事育児をする男性も増えている。また、制服に女子用のスラックスを取り入れた中学校、高校もとても多くなった。しかし男子はどうだろうか。男子用のスカートがある学校を、私は聞いたことがない。このように、まだ性の多様性が充分に理解されていない部分もある。
 私たちは、男性と女性である前に、みな同じ人間だ。男女というのはあくまで種類に過ぎず、それによって個人の好みや生き方を否定し、実力を評価しなかったり、可能性を潰すようなことがあってはいけないと思う。だから私は、男らしさ、女らしさよりも、「自分らしさ」を大切にできる、性別に囚われすぎない社会にしたい。そして、一人一人の「好き」が尊重される世界を実現したい。それが、人権のあるべき姿なのではないだろうか。

お問い合わせ

人権・多様性推進課

電話:03-5246-1116

ファクス:03-5246-1139

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